8月7日、東光寺本堂にて行われた「施餓鬼(せがき)法要」に年長組(すみれ組)が参加しました。成長する過程で忘れてしまうかもしれない小さな体験が、いつか彼らの心を支える「種」になることを願っています。

 

 

「お釜のご飯を混ぜる?」「自分の分をよそう?」
~世代で大きく変わる、炊き立てのご飯の行き先~

「ご飯が炊けたら、一番最初に何をしますか」

子供坐禅会で、小学生たちにこんな質問をしてみました。


小学生のおじいちゃんおばあちゃんの世代であれば、迷うことなく

「まず仏様にお供えする」

とお答えになるでしょう。

一方で、保護者世代に問いを重ねていくと、「あ、そうか、仏様にお供えするんだった」とハッとした表情を浮かべられます。

自分の親が丁寧にお供えする姿を見て育っているため、投げかけられて初めて、その大切な習慣を思い出したのです。

しかし、小学生たちの反応は全く異なりました。

彼らは何を聞かれているのかさえ見当がつかないという様子で、結局、答えを聞くまで「まずは自分のご飯をよそう」ということ以外、思い浮かばなかったのです。

自分でご飯をよそうのは立派な自立ですが、そこには「まず誰かのために」という他者への配慮や感謝の視点はありません。

なぜ、子供たちは炊き立てのご飯を仏様にお供えしないのか。理由はとても簡単です。

お仏壇にお供えをする姿を目にしたことがない子供たちが大半を占めているからです。

20人を超える僧侶の祈りのなかで。
~年長組が体験した「施餓鬼法要」と、水向け~

こうした日々の何気ない習慣のなかにこそ、長きにわたり大切に受け継いできた「心」の本質があります。

そしてお寺で行われる「施餓鬼(せがき)」という法要も、日々の習慣と深く結びついています。

8月7日、東光寺の本堂にて「施餓鬼法要」を執り行いました。

今年も20人を超える僧侶が集まる非常に厳粛な法要となりましたが、そこに袖師保育園の年長・すみれ組の園児たちも参加してくれました。

 

「施餓鬼」とは、お釈迦様の弟子が、飢えに苦しむ餓鬼(がき)に供物を施したことに由来する法要です。自分とは直接関係のない存在に対してまで施しを行う。そこには、自分の身内だけでなく、縁のない他者にまで慈悲の心を広げていくという尊い教えが込められています。

 

子どもたちは法輪ケープを身にまとい、小さな手で数珠をしっかりと握りしめて本堂に座っていました。

法要の中では、外にいる餓鬼に向かってお水やお米をお供えする「水向け(みずむけ)」を行います。

7月の坐禅体験の際に練習した成果を見せるかのように、真剣に、落ち着いて臨んでいました。

今回、園児たちに体験してほしかったのは、この「多くの地域の方が僧侶と一緒にお参りする」という法要です。

普段の生活では味わえない、多くの大人が心を一つにして祈る姿を、園児達の心に焼き付けてほしいと願っています。

今はまだ分からなくてもいい。
いつか人生のどこかで、ふと優しさを思い出す「心の種」を植えるということ

5歳、6歳の園児が、今回体験した施餓鬼の深い意味や、そこに込められた思いをすべて理解することは難しいでしょう。

数日もすれば、日常の楽しさに隠れて、今日のお寺での出来事は覚えていないように見えるかもしれません。

しかし、それでも問題ありません。


私たちの体や言葉、日々の行動は、数限りない体験から紡ぎ(つむぎ)だされています。

幼い頃に見た「たくさんの僧侶が一生懸命にお経を唱えていた姿」や「誰かのために祈った手の感触」は、子どもたちの心の奥底にしっかりと刻み込まれたことでしょう。

そして彼らがこれから成長し、ふとした瞬間や、何かのきっかけで、保護者世代が「あ、そうだった」と思い出したように、懐かしくも大切な記憶として呼び起こされる日が必ず来るはずです。

炊けたご飯をまずお仏壇にお供えし、食事の前に「いただきます」と手を合わせること。こうした小さな実践や体験の積み重ねが、心を育てます。

それと同じように大切な習慣を、園児達が体験してくれたと信じています。

(園長 横山友宏)